おらが故郷、身近な農業や漁業を もっと魅力的な、挑戦できる職場にしたい。「能登の珍味」と言えば、やっぱり海の魚介モノが絶品だ。

 ナマコの腸を干したクチコやコノワタ、モミイカ、フグの子、コンカイワシ(米糠鰯)、烏賊の塩辛。冬なら「海ほうづき」の親で、

 刺身にすると抜群の味のする赤西貝やアカエイの干物、ダイコンやカブラ寿司、タラの子付け・・・等々がある。

 春は飯タコや小豆貝で、甘辛く煮付けると絶品だ。潜在農力や漁力、「能登の滝力」の付加価値を高めよう。

 お年寄りばかりになった在所も元気が出てくるというもの。在所起こしの夢は、二年を過ぎたが、2008年の

 師走7日に「雪が降っても雨が降ってもやろう」とスタートした。

 まだまだ続く。宝物は足元にある。兎に角、やることだ。人在りて、町ありき。在所も江戸後期、文人画家として

 活躍した山崎雲山にちなんで「雲山通り」とか、一宮なら、¨銀行の鴻池、鉱業の古河、海運の西村¨と

 「浪速の三羽がらす」ともいわれた幕末の海商の「西村屋通り」、また、白瀬矗の南極探検隊、「開南丸」の

 船長野村(西東)直吉の「直吉通り」 、気多の麓の寺家なら文学の「折口(迢空)通り」なんて、ネーミングしてみるのもいい。

 更に、大正12年(1923年)の関東大震災に際しては、ロサンゼルス市上空からビラをまいて、 日本救援を呼びかけ、

 昭和5年(1930年)、日本人初の米国やヨーロッパ、アジアの三大陸横断飛行に自費で挑戦、無事に

 立川飛行場に降りたち、昭和30年(1955年)には、ウラン鉱として有名な人形峠(岡山・鳥取の県境)を

 発見した東善作にちなんだ「善作通り」もいい。雪国の心、根性を忘れるな、「継続は何にも勝る力なり」。

 継続に勝るものはなく、自立した日本一の日曜市を目指して、採る、加工する、更に店を開く。

 それが、能登の「屋台村」、「港の駅 たき」につながる。

 1961年(昭和36年)の米国の大統領就任式のJ・Fケネディではないが、あなたが、お友達や知人らと

 「在所起し」に何ができるか、何を一緒にできるかを考えて欲しい。蒔かない種は芽も出ない。

 雲たれて ひとり たけれる荒波を
かなしと思へり. 能登の初旅
                 松本清張

 気多の村。若葉黒ずむときに来て、遠海原の音を聴きをり
                     釈迢空

 羽咋の海 海阪晴れて、妣が国今は見ゆらむ。出てゝみよ。子ら
たゝかひに果てにし子ゆゑ、身に沁みて ことしの桜 あはれ散りゆく
                       釈迢空  「倭をぐな」 昭和30年

 若葉は能登一ノ宮、気多の茂ったタブの木。弘法大師、空海は、入唐前に室戸岬の洞穴で修行していた時、

 口に明星が飛び込んできて悟りを開いたと言われている。その時、洞穴の中から見えたのは空と海だった‥・。

 空と海しか見えず、その海と空とが一つに溶け合った光の世界が眼前に広がったという。

 「空海」という名が生まれた瞬間でもあった。

 先の折口信夫がつけた「釈迢空」の号。釈とは釈尊の略称で、よくあるように法名の上に釈を冠することで仏弟子と

 なったことをあらわす。ならば、空を越えたものを見るということなのか。信士・居士などの位号を用いないのは、

 浄土真宗においては出家せず、戒を受けず在俗のままに帰依するためだ・‥。

 土佐高知の龍馬ではないが、「今一度在所、能登の滝をせんたくいたし申候」。地方自治の原点、「在所起こし」に

 あわせて、毎年暮れの16日未明、奇祭「鵜祭り」が行なわれる気多大社の麓にある折口ゆかりの藤井家を

 能登唯一の「折口父子記念文学館」が、全国から迢空ファンが来ていたことを初夢に見た。今も夢見ている。

 志ある方は、各地で署名なりカンパなど是非とも応援して欲しい。この辺りは、「なぎさの正倉院」と呼ばれる

 「寺家遺跡」がある。古墳時代からの豊富な出土品と多彩な遺構から全国でもまれな祭祀遺跡とされる。

 押し寄せる日本海の砂風に埋もれ、15世紀にその姿を完全に消しながら、30年前に始まった石川県の発掘調査で、

 再び地上に浮上した。それでもなお、「砂に埋もれた祭祀遺跡」は、多くのなぞを残しており、日本海を挟んで、

 渤海との交流していたころに遡る。

 海の彼方の異国には異人たちが住む。そして、海を渡る人々がその文化をとりもった。先人たちの足跡をふりかえれば、

 日本史上の重要な転換はすべて、海からもたらされたといっても過言ではなかろう。柳田国男のいう「海上の道」であり、

 折口のいう客人(まれびと)。「日曜になると、用もないけど、どーも気になる」、「いま行きたい、旬な羽咋滝港!」、

 「行けば何かがある、見つかる!」、これぞ感動の能登だ!。じわじわと評判になりつつある「日曜テント市」。

 けふも、あれこれと検討中。「前後裁断」、乞うご期待!。

 今後の集客には、潜在的に、楽しみにしている人も居る。チラシは、もっともっと奥能登や金沢、加賀等々知人友人らに、

 各自が出かけた先々でビラを配ればいい。役人や議員らも、県内外への出張の際も配ればいいのだ。さすれば、

 更に理解が深まる。兎に角、気力と粘り、歩くこと、行動ありきだ。

 地方分権が叫ばれ、どこでも「ふるさとの力」が問われる時代。豊かさの源とは何か、地方自治の原点である「在所起こし」。

 これは埋もれている「人起こし」であり、「文化起こし」、「忘れていた古里のモノ起こし」。まだまだ続く・‥。

 「港の駅 たき」ではないか。

 ♪真帆片帆 唄をのせて通う ふるさとの 小島よ 燈台の岬よ
白砂に 残る思い出の いまも仄かに さざなみは さざなみは 胸をゆするよ

 漁火の 遠く近くゆるゝ はるかなる 小島よ 燈台のわが家よ
なつかしき父のまた母の 膝はゆりかご いつの日も いつの日も 夢をさそうよ

 年経りて 星に月に偲ぶ むらさきの 小島よ 燈台の灯りよ
そよ風の 甘き調べにも 思いあふれて 流れくる 流れくる 熱き泪よ
   昭和28年 ふるさとの燈台 作詩:清水みのる 作曲:長津義司

 おらが在所、一ノ宮や滝からお隣志賀町高浜に向かう柴垣にかけての自転車道路からの海岸近くには、かつて、

 日本最古の塩田もあった。時折、水仙も目に入る。沢カ二も居る。ここからの日本海へ落ちる夕陽は特に美しい。

 岩場で釣りや岩ノリ、カジメ、フノリ、アオサなど海草採りも出来る。春はアイナメ、夏は、キス釣りや海そうめん、

 秋には岩タコ採りやすずき釣り等々・‥。

 かつては、能登七尾出身の絵師長谷川等伯(1539〜1610)が、近くの妙成寺で「仏湟槃図」を描いている。

 世界的にも水墨画の最高峰とされている「松林図屏風」の松林は、おらが滝から柴垣の防風林を描いた。

 これは、息子の死に苦悩して描いたとされている。

 在所には、それぞれ名人が居る。歴史と自然があふれ、泰澄大師が伊勢内外宮を参拝しての帰り、

 夢想の歌「恋しくば尋ねても見よ 能く登る一つの宮の奥の社へ」のお告げを受け、神宮寺正覚院を創建したと

 言い伝えられる。今は真言宗に属するが、もともと千年以上にわたって、気多大社神宮寺の別当寺だった。

 重文の阿弥陀如来坐像も、かって気多大社の講堂本尊だ。明治初頭の神仏分離によって、社僧の長福院や

 地蔵院、薬師院などが廃退し、ただ一つ残存した「正覚院」に移され、現在に至っている。

 こうした神仏混淆時代の経緯から、寺宝にも気多大社ゆかりの品が多い。先に触れた七尾出身で、桃山時代の

 著名な絵師・長谷川等伯の若かりしころの作品「十二天画像」も所蔵している。近くには名刹本成寺など

 神社仏閣、板碑もあるので新たに巡礼の道を作ってもいい。絵心や写真の趣味あれば、又短歌や俳句に興味あらば、

 折口ゆかりの藤井家もあり、格好のロケーションだと思う。

 お隣一ノ宮海岸では、夏には浜茄子やナワシロイチゴ、浜昼顔なども咲く。白砂青松だ。海水浴にもいい。夏は賑わった。

 秋は大根や白菜、ニンジンだ。冬のあれた日は、そで、つまり樽イカだ。朝は来ない夜はない、出会いのない旅、

 出会いのない在所起こし、テント市もない。

 ここへ来れば、羽咋のことは何でも分かるようにしたいと心がけている。土日休みの役場の中の観光協会ではだめだ。

 日本海側唯一の「港の駅 たき」が完成すれば、ふらりと訪ねた客に宿でも何でも答えられるインフォメーションセンターも

 視野に入れている。夏はお隣、柴垣の瓜や赤土スイカ、秋は大根にキャベツ、春菊、ほうれん草、中島菜。

 春からおらが在所の裏山の山菜など。目の前の海ではテングサやカジメ、フノリ、アオサなど海草もある。

 夏は、天草に海士が十広(とひろ)もぐって採る天然岩牡蠣等々だ。これは絶品。折角知恵は戴いても、行動する

 青壮年らの「人起し」が、最大の課題。まさに、人在りて、町お越しではないか。

 志のある三人から五人、五人から十人へ。種火に着火だ。これさえ、何とかなれば、話しは早い。老いドンは、

 荒れ果てた田んぼに、柚子やみかん、栗、梅などを植えた。もう少し増やしたい。

 出会いや情報の神、龍馬にあやかって、日曜テント市、新たな出会いもある。元気なおねぇやおばぁたちは、

 当日は何を出して、県内外からやってくる皆さんを迎えるのか楽しみだ。日曜テント市も修行だと思えばなんでもないはずだ。

 若者が居ないというより、居ても出てこない過疎の、限界集落の在所。子どもに夢を、お年寄りには生きがいを!。

 まさに、「ふるさとの力」が問われる時代だ。繰り返すが、兎に角、手や足となるやる気、「人起し」が先決なり。

 でないと、何事も前へ進まない。

 先にも触れたが、今を去る49年前、1961年(昭和36年)の米国の大統領就任式のJ・Fケネディではないが、

 「あなたが在所起しに何ができるか、何を一緒にできるかを考えて欲しい」。また、世界のソニーに仕上げた

 創業者の盛田昭夫(1921〜1999)も「とにかく思い切ってやってみようじゃないか。間違ったら、また変えるのだと

 言っていたではないか。やるしかない。

 どこでも、いつでも「光と影」は付きまとうが、息の長い挑戦だ。それにしても在所の青年や壮年の男女の連中が、

 立ち上がることに尽きる。そして、失敗は恐れず、未来を担う子供達と日曜朝市を告げる疾風太鼓を打ち鳴らすかだ。

 問題は、時代、次代のニーズ、歴史を踏まえた生活実態に合わせた戦略だと思う。まさに、♪どぶに落ちても根のある奴は 

 いつかは蓮の花と咲く・‥だ。

 この日を楽しみにしているお年寄りも多い。羽咋や飯山、それに富来、志賀、志雄、内灘、金沢からも来てくれている。

 一昨年の暮れには、名古屋から友人の髭、市さんも叱咤激励に来てくれ、今年もjまた来てくれた。

 去年も年が明けた時に、在所出身で、神戸の知人も顔を出して、「こんか鰯」を求めていった。尾張からも

 髭さんや市さんも再び来てくれた。地域に住む人たちや友人知人の理解なくして、何事も進まない。

 度々繰り返すが、「継続は力なり」。これに勝るものはない。何時もの日曜テント市。「ここ滝だけ」、「ここ滝しか」、

 「今の滝しかない」、能登の文化である。それを伝えていくことではないかと思う。「雪国の心」を忘れない食文化であろう。

東風(あいのかぜ)に吹かれて(毎日更新)